すずきともこのプロフィール

1969年東京生まれ。米国カリフォルニア大学バークレー校地理学部卒業。中米コスタリカの文部省ボランティア英語教師として1年間赴任。その後ペルー、国立サンアントニオアバッド大学クスコ校で特別日本語講師を務める。現在はクスコを拠点とし、中南米、アジア、アフリカ、ヨーロッパ各地の国立公園を訪ね環境問題、エコツーリズム、先住民の文化習慣に関する記事を写真をまじえながら日本の雑誌、新聞で紹介。NHK第一放送海外レポートにも定期的に出演。ペルーではフォトエッセイスト、TVコーディネーター、マヌー国立公園ガイド、マチュピチュ通訳ガイドとしても活動。NPOオロペンドラプロジェクトを立ち上げ、自然保護小学生劇団の結成やエコツーリズムデザイン、保護地区設立、エコロッジ運営をマヌージャングルで実施。現在はマヌー伝統文化の本を村人たちと共同制作中。オロペンドラ旅行社経営。著書に「クスコから」アマウタ出版、「アンデス、祭りめぐり」青弓社、「アンデス奇祭紀行」青弓社がある。毎春、日本各地でペルーに関するスライドショーや講演会も行っている。でも何と言っても一番好きなのは先住民の活気溢れる伝統祭り!!



病弱、根暗、いじめられっ子だったの?
アマゾネスすずともの生い立ちストーリー

アンデス在住のすずとも海面下で誕生

それは60年代も終わる頃、すずともは東京の0メートル地帯で有名な江東区(今はウォーターフロントよ!)というところにすずき家の長女として生まれました。生まれたばかりのすずともは肌の透き通る白雪姫のような女の子だったので、親戚一同「可愛いこの子はきっと将来美しい女優さんになるに違い」と期待していました。人間はパーフェクトではありません。なんとすずともは扁桃腺は脹れる、腎臓が悪いという大変体の弱い子に生まれてしまったのでした。いつでもどこでもすぐに40度の熱を出し、夜中でも両親が交代で町医者へ連れて行くというまったく手のかかる子でした。小学校に入ってからも病院の検査で遅刻早退を繰り返し、付き添う母親は仕事にも行けないありさま。そして熱を出しては数日間学校を欠席し、運動会や水泳のようなハードな運動はドクターストップ、行進やお遊戯の参加がときどき許されるだけでした。病弱で内気なすずともは学校では根暗といわれ4年生まで誰とも一言も口をきいたことのない目立たない子でした。唯一の友達といえばお医者さんと歯医者さんと学校の先生だけでした。学校の20分休みはみんな一緒に楽しそうに遊んでいましたが、すずともはいつも独り。けれどそんなすずともにもお友達がいました。それは校庭の苗木についた大きく太った蝶々の幼虫でした。それをたくさん手にとってひとつひとつなでてあげるのが憩いの時間の過ごし方でした。すずともは昆虫や植物が大好きで学名つきポケット図鑑をバイブルのように大切にしていた生物大好き小学生だったのです。でもちまたの小学生たちはそんなすずともを気持ち悪〜ぃいい、と言ってさらに仲間はずれにしたのでした。家に帰ると2羽からはじまって19羽まで増やした手乗りインコを肩に乗せて遠くのスーパーまでお遣いに行きました。インコ少女のすずともはいつも理科委員や飼育係を務め、大好きなTV番組は野生の王国、愛読書はファーブル昆虫記、一生懸命ためた貯金で顕微鏡を買い水槽のアオミドロやミジンコを覗いて遊んでいた子でした。女の子たちが漫画のイラストを落書きする傍ら、すずともはミジンコ、ペンギン、コンゴウインコを描いてニンマリしていました。

静かなすずともは親の言うことをきちんと聞く、いわゆる優等生タイプでした。反抗もせずに親に心配をかけないよう勉強をし、きちんと規則を守りました。社会に後ろ指刺されないように、できるだけ良い学校へ進学して良い就職ができて将来の生活が安定するようにという当時の母親たちの要望に適うように、小学校の頃から暗記だけの塾の勉強や四谷大塚進学教室とかいうのに必死に通います。そんなことをしているうちに結局時間が無くなって小動物や昆虫を飼育する生活がいつのまにか完全に消えてしまいました。なんだか今思うととても残念です。でもその当時虫や魚や蛙や亀や鳥を育てるのは学校の勉強に比べると何の意味もない時間の無駄として見られていたのでしょう。優等生だからそのまま従ってしまったすずともでしたけれど。  
        
 中学生になるとすずともは少し大人になって雑誌を買うことを覚えました。みんながアイドル雑誌の切り抜きを集めているときに、やっぱり買ってしまったのはコアラ全集とか、オーストラリアの珍獣の本とかでしたが、アルバムにその動物の切り抜きを大事に貼っていました。(そういえばレッサーパンダの写真も大事にしていましたね。)でもとにかくコアラ大好き。考えると夜も眠れないくらいでした。日本初多摩動物園にコアラが来ると決まったときには、学校を休んで空港まで行こうと思ったくらいです。早速コアラ友の会に入って会員番号が00000057番。みんながアイドルのファンクラブの会員になっても会員番号x万xxx千番と聞いていたので優越感に浸ったものでした。すずともの当時の夢はオーストラリアに留学してコアラの専属獣医になること。ですから苦手だった英語も勉強し始めました。それが発展して英語の絵本をたくさん書きはじめます。(そうそう、小学生のときからたくさん詩や物語を書いていましたね。)

すずともの海外デビューはタスマニア

高校進学は大学付属でチャペルの素敵なカトリック女子高か国立女子高に行くのが夢だったけれど見事ふられましたし、都立高校に行ったら交換留学で海外に行ってもいいというお許しが出たので近所の都立高校に行きました。約束通り高校に入ると学校の勉強などそっちのけ、すぐにAFS交換留学プログラムの試験を受けて念願のオーストラリアに一年留学。(この間の英語を練習したくて町に出ては無差別に外国人を見つけて英語で話かけ路上で英会話の特訓をしました。その頃は「国際的」が流行していた時代で各国から日本に出稼ぎが来ていたので外国人も氾濫したのです。すずともはアルマス広場にいる旅行社の呼び込みクスコ人のように声をかけまくったのでした。) 

留学応募書類に大自然があるところと希望したので人より羊の数の多い南端のタスマニア島(それも北西部という州都から一番遠い地図にものっていないようなところ)に流されてしまいました。タスマニアは大自然の島でしたが、お目当てのコアラは動物園にしかいませんでした。けれど野生動物の宝庫でカンガルーの小さいワラビーがよく路上で引かれて死んだり、森のど真ん中にあるホームステイ先の家の敷地内の池にはカモノハシが2匹住んでいたり、そこらでウォンバットやタスマ二アンデビルに出会いました。隣の家は車で数十分のところにあって、仕事に疲れた日本の大人が来たのだったら自然満喫で休まるかもしれないけれど、突然東京から来た幼いすずともには大変なカルチャーショックでした。音のない世界や人がいないところがあるなんて知らなかったわけですから。日曜日はブッシュウォーキング(ハイキング)か海に行って魚釣り。タスマン海峡は寒流で冷たかったけれどアワビももぐってたくさん捕りました。歩いていて新鮮な牛の糞を何度知らずに踏んでしまったことか。糞を踏むとあとあとまでとても臭いのも知りました。東京の路上で大きな動物の糞を踏むことってないわけです。けれどすずともは基本的に全部こういう生活が好きではまっていました。そこで時間に流されて忙しく生きるのではなく、想いにふけったりゆっくりした時間を罪に感じず楽しむ生き方を覚えました。

その他にもすずともははじめての海外生活でいろいろなことを学びます。その一つのは誰でも笑うと可愛いということでした。15歳のすずともから見た日本のティーネージャー学校社会では毎年流行があって、流行の髪型に整髪剤、流行の服装に痩せた体系、知っていなくてはならない歌や芸能人というのがありました。そういうことが嫌いだったすずともには小中学校時代は本当に苦しかった。けれどタスマニアではそれほど流行は気にせず一人一人がそのまま普通にしていれば良かったのです。みんなの目や他人の顔色を気にして合わせたりすることもあまりありません。一人でいたい人は一人でいればいいし、誰かといたい人は声をかけて毎日違う人といても良かったのです。日本には芸能人のような痩せていて可愛い子のお手本があり、それにならないと価値がないように思わせられるプレッシャーを感じたけれど(すずともはとくにドン臭い分類の女の子だったから余計感じたかも)、海外ではもっとドン臭いタイプもそれなりに居場所があったような気がするのです。きっとそれは他に何か取り柄や能力があればそれが認められたからでしょう。いわゆる個性を尊重する環境が日本よりももっと整っていたのでしょう。ある日、すずともは太っていてチリチリ毛のショートカットの女友達と廊下ですれ違ったときに、にこっと笑って「おはよう。元気?」と言われました。そのときの彼女はなぜか天使のように素敵に見えました。顔のつくりは映画女優のように整っているわけでないし、太っているし、髪の毛だってキメているわけじゃない。それなのに溢れるような笑顔は最高の美しさだったのです。私だって笑えば、流行の服を着こなしていなくても髪の毛をブローをしていなくても足が長くて痩せていなくても素敵に見えるのかもしれない!とすずともは心の底から初めて知ったのでした。この気付きは大革命でした。すずともにとってあの瞬間は一生の宝となりました。

すずともは中学生まで人間ってどうして生きているんだろうといつもいつも悩んでいました。中学生をもう少し長くやっていたらきっとこの難題に押しつぶされて狂ってしまっていたかも。もうこの世から消えていたかもしれません。そのくらい思い詰めていました。きっとそれは当時みんなと同じになるために自分がしなくてはならない俗的で無駄なことが多すぎたのと、自分が得意だったり本当に好きだったことを否定され社会の奴隷になっていたからでしょう。もしそのとき生きる理由が分からなくても、もっと自分に合った価値観を持った環境で、自分らしくのびのびと一日一日を大切にして生活していたら充実感を味わって楽しく過ごしていたに違いありません。今日本では少しずつ個性を尊重する傾向になってきているというけれどどれだけ変わったのかしら。まだ昔のすずとものように苦しんでいるティーネージャーもいるのでしょうか。

留学中、すずともは両親に新しいことを伝えたかったのと、心配をかけたくなかったので日記を書き全部をコピーして日本に送っていました。親は一番好き。けれど16歳で親元を離れ、日本の圧力から離れて一時的にでも一人自由になったのはすずともの人生にとって本当に良かったのです。人生の選択を初めて外の圧力を感じずに実行できたからです。好き嫌いを自由に言ってどちらを選んでも間違っていない環境はすずともに選択の勇気と意欲を与えたのです。そして他人は親切で助けてくれるけれど決定するのは全て本人、決定するには選択肢を分析しなければならないから、知らないことは自分で調べなければならない。自分の選択には自分の責任が自然とのしかかってくる。その訓練をオーストラリアの日常生活で積んでいったのが本人には生きる勉強となったのでしょう。すずともはこれまで病弱で精神的にも弱かったはずでしたが、この海外生活で体の中の「気」が回り出したのか、とても気分が自由に大きくなって日本へ帰りました。心身ともに健康になり、以前より物事を怖がらず積極的に挑戦するようになりました。もしかしたら、生まれ育った国の社会のシステムや自然環境が残念ながら初めから合わない子もいるのではないのかしら。けれどその子が幸運にも自分にあった環境に出会ったとき、(例えばすずともの場合大好きな緑の中で、おおらかで時間や商業的な価値観にあまり束縛されていない人々といられる環境)本当の自分が生きてきて強くなれるような気がするのです。

すずとも渡米。カリフォルニア大学UCBへ

すずともにとってオーストラリアから帰ってきてからの学校はとてもつまらなかったようです。学校の予習は忙しいし、黒板を写すだけでユーモアの欠片もない先生の受身の授業は充実感がないし、一年ダブってしまったからみんなに長老と言われるし(でもこれは結構気に入っていたかも)、 帰国後の英語はめちゃくちゃオーストラリア訛りで先生には笑われるし、部活のソフトボールはピッチャーだったはずが帰国したらキャッチャーに代わってしまうし、窓から見える風景はもう大自然のタスマニアではなく灰色のコンクリートになってしまってとても悲しかった。けれどどうして高校に席をおいていたかというのはきっと高校生の懸賞論文、高校生のスピーチなど、高校生対象のというイベントがありそれにはまっていたからでしょう。高校生でなければ応募できなかったからですね。論文は好きでよく書いてはいくつか賞ももらいました。お菓子のおまけみたいに景品がつくと楽しいものです。授業は早弁、居眠りで教室にはいたけれど何もきいていなかったかしら。試験前だけの勉強したら内申書だけは良かったので推薦入学で大学に行き、バイトをしながらどんどん遊ぼうと計画を立てていました。けれど推薦試験の面接で余計なことを笑いながら言ってしまったのがいけなかったのか、英語も論文も簡単だったのに落ちてしました。これには先生もびっくり!学校の名誉を傷つけてごめんね。すずともはこれでもう海外の英語圏の大学に行くことに決め、とにかく英語を猛烈に勉強しました。この受験勉強でかなり英語が上達したようです。

その後ケニアかメキシコシティーにあるアメリカの大学の分校に進学しようと思って願書も取り寄せます。けれど危ないからと両親から反対。結局アメリカ本土だったら学費も援助してくれるということだったので、カリフォルニア州にあるジュニアカレッジ(短大)に行くことにしました。そこはお年寄りも高卒の子も仕事をしている人も大卒で新しい分野に行きたいという人もいろいろな背景の人たちが一緒に勉強する環境でした。私は勉強と平行してスポーツをしたり文化サークルを作り会長になって思う存分楽しみしました。アフリカ人のルームメイトと暮らし、ラテン人のボーイフレンドたちと毎週週末は3日3晩踊りまくり、夜はチップの良い日本食レストランでバイトをして生活費を稼ぎ、最後にはカリフォルニア大学バークレー校に編入して卒業ということになります。アメリカの大学は寛大です。バークレー大学は難しいはずなのに (知名度の高い大学は卒業だけでなく入学も難しい) 当時あまりスペイン語ができなかったすずともでしたが、なんとスペイン語専攻で編入試験に合格させてくれてしまったのですから。でも勉強の地域をラテン一箇所に限定するのはもったいないと思い、新学期が始まるすぐ前に世界を広く見られる地理学部に変更しちゃいました。バークレーでは政治地理、経済地理、環境地理、文化地理、地形地理の5つがあったけれど環境と文化を専攻して自然環境と先住民の社会がどのように影響しあっているかを学んだのでした。その当時発展途上国の開発法としてのエコツーリズムも盛んに討論されていたので、その分野にも興味を持ちました。これが私の大学生活。レポートレポートの毎日でなんだか編入してからはあまり遊べなかったけれど、めでたく卒業して(外国人にとっては憧れのアメリカの就労ビザも有効に使わず)、以前から夢であったボランティア隊員として中米コスタリカへ向かうのでした。

中米コスタリカでボランティア教師

6コスタリカは自然保護やエコツーリズムで有名な国。すずともの赴任先のサラピキは毎朝黒ホエザルが叫び声で一日が始まり、2メートルものイグアナが爆弾のように木から川へ飛び込み、川辺で洗濯をしている女性がしばしばワニに食べられるというジャングルの村でした。またコスタリカというと軍隊を持たない中米のスイスとか、中米で教育水準が一番高い国という良いイメージがあるのですが、すずともの住んだ内陸地方ニカラグア国境は差別と問題が多い少し荒れた田舎の村でした。ひざが見えるスカートやショーツをはくと売春婦扱い、20歳を過ぎて子どもがいない女性は人間として問題あり。地元の少女は14歳になればシングルマザーで、その子どもの顔は近所中みな同じ。路上で男性に道を訊ねているところを目撃されると次の日にはその男性と寝たという噂が広まっているというそんなところでした。すずともは第二市民のチャイニーズと言われ、教師という職業で村に入ったのにもかかわらず上記の理由から差別の対象になりました。まあそんなのはすぐ気にならなくはなりましたが、この村にはいろいろ問題がありました。貧しいニカラグアからの不法入国者がバナナ畑に潜んで小銭欲しさにナイフとフォークで人を殺した事件とか、識字率はかなり低く20歳前半の若者でも文字が書けない人がいたり、暑いので男はビールを水代わりに飲んで酔って女、子どもを虐待する。そんな青あざをつくってやってくる子供たちを小学校で教えるのがすずともの仕事でした。村には女性の出て行ける場所がなく、すずとももかなり退屈だったので夕方エアロビックス教室を開きみんなで音楽に合わせて運動しました。そのついでに何を食べればバランス良い健康的な食生活ができるのかということを本を参考にしながらみんなで話し合いました。週に一回は隣村の老人ホームへも行って歌を歌ったり日本のことを話したりといった手伝いもしました。夜は男子バレーボールチームのトレーニングもしました。教科書を作って欧米人団体が来る大きなロッジの従業員たちに観光で役立つ英語を教えたり、エコガイドの養成プログラムの手伝いもしました。こんなことをしていたら放課後のスケジュールが詰まってとても忙しくなりました。

でも何と言っても充実していたのは、本職の学校の授業です。英語と環境教育を教えるというコスタリカ文部省のプログラムでしたが、ユニークなことに教科書はなく学習の手引きに書いてある事項を教師一人一人が自分のスタイルで教えるという発展的なものでした。熱帯雨林の暑く湿気のある教室では誰もが眠くなり勉強どころではありません。それに登校する習慣さえ危ういこの地域で授業を行うのは至難の業です。まずは平気で教室内でサッカーする子供たちを席に着かせ、おしゃべりをやめさせて前を向かせる。静かにしなさいと怒鳴って1日目で声はかれましたが、2日目から授業が始まるとすぐに子供たちを校庭に出して、すずともが言った英単語と同じ絵を遠くまで走って取ってこさせるという遊びをやらせたり、エアロビックスと英語の歌を合わせて汗をかかせ疲れさせてから、教室に戻って授業を行いました。するとへとへとになった子供たちはさすがに静かになりました。その他、英語劇、切り貼り工作、黒板に書かせるなどアクションを常に伴う授業でラテンの子供たちの集中力を持続させます。毎日子供たちも何をするのか楽しみです。けれど教科書がないという教師とって大変自由なシステムは、新鮮で楽しく飽きがきませんでした。すずともは宿題(観光客を探して英語で話しコメントと署名をもらってくる)とテスト(間違えた単語は30回ずつのノートに練習してくれば落第にはならない)がとても多い先生でしたがみんな頑張ってやっていました。

夢のマチュピチュを目指せ!

1年間の任期も終わりに近ついた12月、すずともは小学生のときから憧れていた念願のマチュピチュ遺跡を見に行く決心をしました。ちょうどペルーから帰ったばかりの友人が「日本から行くよりも中米から行った方が近いし安いから素晴らしいペルーへ行っておいでよ」と言ったのにひらめいて、すぐに国際教員カードで格安チケットを買い、そのままペルーに乗り込みました。リマの旅行社に行ってマチュピチュに行きたいというと、クスコに行かなければいけないと言われましたが、すずともは 「そんな暇はない。マチュピチュ直行のチケットを売ってくれ」と言ってしまうほどペルー観光に関して無知でした。電気もろくにないコスタリカのジャングルでは旅行の資料など手に入らなかったのですから無理もありません。(マチュピチュに行くには必ずクスコから列車に乗っていかなくてはならないのです。)そして仕方なくクスコに着くと、今度はふわふあ眠くてしょうがない。どうしちゃったんだろう?すずともは高山病のことも全く知らなかったのです。その何も知らないすずともがアンデスの祭りを見るためにクスコに一年間暮らす決心をします。それもクスコの国立大学の特別日本語講師をして生活費を稼ぎながら。その続きは「アンデス、祭りめぐり」青弓社に詳しく出ているのでそちらで。

まあ、こんなところですずきともこは祭りに魅せられペルーにとどまり、今はアンデスだけでなくアマゾン地域の大自然や先住民の生活や祭りにもはまっているのでした。あんなに色白でか弱いともこちゃんでしたが、今ではアンデス&アマゾン焼けで現地では先住民と間違えられるほどです。そしてたくましくて男らしいと誉められ?ながら、日本女性として遠い地で活動しています。ですから病弱なお子さんをお持ちのお母さん、心配しすぎないで希望をもってくださいね。あることがきっかけで普通の子と同じくらい、またそれ以上に健康で強い子になってしまうかもしれませんから。それから虫や蛇が大好きに育ってしまったら、その分野の好奇心をつまないで誉めて能力を伸ばしてほしいと思います。それがいくら受験や一般的な就職に役立たなくても(すずともはおしいことに社会の風潮に屈してしまいましたから)。支援してあげたことによって将来その子は特殊な分野ですごい人間になっちゃうかもしれませんから。さーてすずともはこれからはどうなるのかしら。 この続きはいつかまた。

さて現在のペルー暮らしはこちら。 マンモTV 今週のインタビュー すずきともこ
 
http://www.mammo.tv/interview/147_SuzukiT/